カンボジア旅行記・歴史編 <テルミンの軌跡を辿って>

私事ながら2025,12,30~2026,1,2 の間でカンボジアへ伺い、古都シェムリアップと 首都プノンペンを巡りました。


※テルミンさんの軌跡を巡り、カンボジアの旅を通して 感じたことをこのブログに書き留めておこうと思います。 

◆今回はカンボジアの歴史についての感想を記載しております。

まずはカンボジアといえば、やはり世界遺産のアンコールワット。

私は現地のガイドツアーで、早朝に日が昇る直前(1枚目の写真)と、日暮れの夕日に照らされるアンコールワット(2枚目の写真)を今回 拝見しました。



その建物の神秘的で 巨大な外見の迫力も去ることながら、もっと驚いたのは、内部の回廊に刻まれた彫刻の量と精密さ。

こちらの写真は回廊の一部ですが、高さ3m・奥行は50mはあろうかという壁面と天井全てに、とても細かい彫刻が所狭しと彫刻されております。内容は当時の歴史や神話・裁判や戦争の様子など、かつてのクメール人が大切にしていた歴史観や宗教観を伺わせる内容です。


これはほんの一部で、他の回廊や上階にもさらに 大量の彫刻が施されており、当時の人の技術力の高さと、アンコールワットに捧げた情熱の凄さがひしひしと伝わってきて 感動的でした。

アンコールワットの他にも、遺跡群があり、こちらはアンコールトムという場所にある バイヨン像。観音菩薩が4つの面に 大きく掘られた四面仏が見られて、こちらも圧巻!


他には、遺跡そのものが ガジュマルの木に覆われている タプロームという寺院も。

自然の美しさと人工の遺跡が融合した 神秘的な場所で、その見事なまでの調和した様子は、そこにいるだけで どこか神聖な気分になる、素晴らしい場所でした。


これらのシェムリアップに存在する遺跡は かつて9~15世紀に栄えた アンコール朝によって築かれたもので、

その後 首都をプノンペンに移転したことによって、一時的にジャングルの森林に覆われていたこともありましたが、現在では発掘が進み、今では その美しい遺跡群を見て観光することが出来ます。


そんなかつては栄華を極め、素晴らしい遺跡が多く点在するカンボジア。



しかし20世紀になり、世界大戦によって 情勢が大きく変化する中で、カンボジアは悲劇的な歴史を辿ることになってしまいます。




<ここからは少し複雑な歴史の話となります、読み飛ばして頂いても構いません>

1953年、フランスの植民地から独立したカンボジアでは、裕福な都市部と 貧困に苦しむ農村民との間で貧富の差がありました。国内では共産主義者たちが台頭して、財産を私有物ではなく 共同体による所有とすることで、貧富の差をなくそうとする思想・体制を望みました。

この当時、隣国であるベトナムでも 同様に社会主義を望む声が広がり、共産主義を求める北ベトナムと、反共産主義を掲げる南ベトナムによる内線=ベトナム戦争が1955年より勃発します。


共産主義を取り入れようとしていた 当時のカンボジア国王:シハヌークは、北ベトナムを支援しますが、1965年 共産主義を認めないアメリカが このベトナム戦争に介入。

資本主義のアメリカとは対立する形となった カンボジアは、当時 アメリカと国交を断絶してしまいます。


そして戦争が激化していく中で、カンボジアは北ベトナムや南ベトナム解放民族戦線を援助するため、補給路としての「ホーチミンルート」の為に、カンボジア国内を通ることを黙認したのです。

つまり、ベトナム戦争の勝利を目指すアメリカにとっては、この補給路を断たなければ 戦争を終結できない為、アメリカはカンボジア国内に向けて 空爆で攻撃をおこなったのです。

またアメリカは カンボジアの共産主義化を防ぐため、カンボジアの国王シハヌークを失脚させ親米政権=ロン・ノル将軍の政権を樹立させることを画策しました。


そんな動乱の折、1967年4月に、政府による余剰米強制的安値買い付けに反対する農民と 地元政府の間で衝突がカンボジア国内で発生してしまいました。(カンボジア版の米騒動)

このときに農民側に立って、カンボジア政府軍と衝突したのが、赤いクメールを意味する共産主義勢力『クメール・ルージュ』です。


このロン・ノル将軍(親米・資本主義)政権クメール・ルージュ(反米・共産主義)との戦いがカンボジア国内で展開され、内線によって国内は疲弊し 多くの国民が難民になる状況に。

そして1973年、パリ協定によりベトナム戦争が集結し、アメリカ軍はベトナム&カンボジア国内から撤退することになり、後ろ盾を失ったロン・ノル将軍の力は急速に衰え、ついに実質的に「クメール・ルージュがカンボジアの政権を握る」ことになりました。

このクメール・ルージュでの最高責任者が 「ポル・ポト」という人物でした。

▲クメール・ルージュの党首「ポル・ポト」


ここまでの話をまとめると、1973年 カンボジアでの長引く内戦が ようやく終結し、ポル・ポトという人物をトップとする「クメール・ルージュ」という組織が カンボジア国内を統治することになりました。

農業で生計を建てていた 多くのカンボジア国民にとっては、自分たちから安く米を買いたたいて苦しめてきた旧政府(ロン・ノル政権)が去り、自分たち(農民)の味方側に立って 戦ってくれた「クメール・ルージュ」が新たな政権となってくれたことは 本来喜ぶべきことでした。



しかし、クメール・ルージュの最高司令官ポル・ポトは、極端な共産主義者で、このような思想を持っていたのです。

・農本主義=農業を第一と考える思想から、文明社会から決別する。
・そのために知識人(医者や先生・銀行といった文化的なエリート人)を排除し、全ての国民に農業を従事させる。
・文明的な技術に頼った農具も認めず、旧来の農具(または手作業)のみで農業をさせる。(車の所持も禁止)
・ヒンドゥー教や上座部仏教など、全ての宗教の信仰も禁止。


といったように、異常なまでの共産主義を国民に徹底させ、

国民は食事は水で薄めた粥を1日2杯だけ、毎日12時間以上、手作業のみで農業に従事し続ける、という地獄のような状況になったのです。(医者や弁護士など、これまでの職業に関係なく、例外なく全ての国民に強制されました)



人々は過労により疲弊し、次々と餓死・病死していきました。


しかも この過酷な状況で農業生産性を上げなければいけない、という目標を掲げていた為、ポル・ポトは、「目標に届かないのは、国内部に 反政権組織や裏切り者がいる為である」と考え、無実の国民に 反乱分子の疑いをかけ、

次々と罪なき人々を、拷問し虐殺していったのです。



そんな拷問がおこなわれた遺構が 今なお残るのが、こちら。

プノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館です。

ここは 高校の校舎を転用した4棟の コンクリート造の建物で出来ており、

1階にあるフレームだけになったベッドは、実際にここで囚人を張り付けにし 鋸や鉈で 絶命するまで拷問がおこなわれたとのこと。

掲示されている写真には、実際に亡くなった方の無残なご遺体が映っています。


他にも水攻めや鞭打ちなど、痛々しい拷問の跡が見られ、拷問の再現絵を見るのもはばかられる程です。


また以下のように掲示されている写真は、多くはクメール・ルージュの構成員だった人なのですが、その顔を見るとどの子もまだ幼く、なんと多くは8歳~20歳の少年・少女だったとのこと。

幼い内に親元から引き離され、「国内に潜んでいる反逆者を見つけて殺せ」と命令・刷り込まされ、罪なき人達に ありもしない自白文を強制的に書かせ、拷問の末 殺害することだけを教えられてきた子供たちなのです。


囚人が独房に入ってからの日数が 監守=クメールルージュの少年によって 壁に刻まれていたのですが、まともな教育を受けていない為、6以上の数字は書けなかった、というエピソードがあり、そのあまりにひどい惨状には 言葉を失い、とても悲しい気持ちになりました。



この施設では 約2万人の罪なき一般人が勾留され、最終的に生きて帰れたのはたった12人でした。

この虐殺資料館と同様の施設が、カンボジア国内全土に数十箇所はあったとのことで、

どれほど当時のカンボジア国内が 荒れていてひどい場所になってしまっていたかを考えると胸が痛みます。




また、同じプノンペン市内には、キリングフィールドという場所があります。


ここでは先程の虐殺の後 殺害された人たちを穴を掘って 埋めていた場所で、

現在では既に 亡くなられた方のご遺骨は取りだされているものの、全てを掘り出すことは出来ず、未だに 小さく砕けた歯や骨が地面の上で白く見えるところもあるのです。

また、キリングフィールドでも虐殺がおこなわれましたが、(現代のように)銃殺ではなく、斧やクワなど 農機具を使った苦痛を伴う方法だったとのことです。


理由は銃の弾丸を買うお金がなく、安価に殺戮するために 暴力による虐殺となったのです。夜な夜な聞こえる断末魔を消すために、大音量でクメールルージュの軍歌を大音量で流しながら、銃弾の価値より低く 人の命が奪われていったのです…。

そしてキリングフィールドの慰霊塔はガラス張りになっており、そこには殺された人間の頭蓋骨の髑髏が敷き詰められていて、異様な光景が広がっていました。

当時は知識人・教師・宗教関係者などを反革命的な者とみなして 次々と殺害され、最期には眼鏡をかけている、時計を読むことが出来るだけで、処刑の対象となったとのことです。


ちなみに、政権の終盤では 処刑する側も命令に逆らえば処刑対象となる状況であり、加害者であると同時に被害者にもなりえたことを思うと 当時の人々の恐怖のことを考えると、本当に悲しく 辛い気持ちになります。




結果的に、ポル・ポトは 1975年~1979年の4年間で 

150万~200万人を虐殺し、

これはカンボジアの1975年当時(約780万人)の

人口の約4分の1に相当するといわれております。

(虐殺を恐れた難民が国外に流出したことで、この大悪行が世界に知られることになり、ベトナムが侵攻したことで クメール・ルージュ政権が1979年1月に打倒され、大虐殺はようやく終わりを告げました)




【結論】

悲惨な過去によって 沢山のカンボジア人が亡くなり、終戦後も 地雷や不安定な国の動乱に翻弄され、その影響が貧困という形なって、今でも苦しめられています

そんな重く冷たい歴史は 本来であれば、蓋をして無かったことにしてしまいたい、他の国の人には知られたく無いとおもうのが、人の情(サガ)では無いでしょうか。


しかし、カンボジアは この消し去りたい程の過去を、包み隠さず 世界に向けて公表致しました。私が伺ったキリングフィールドやトゥールスレン以外にも、国内各地に たくさんの虐殺の証拠を掲示してあるのです。

自国の恥を隠すことより、この虐殺と悲惨な過去を知ってもらい、二度と世界で同じ過ちが繰り返すことのないように、と全てを公開されたのです。

これがどれ程 勇気ある行動であるか、計り知れません。



内戦による自国民同士での虐殺・処刑という、人類史上 最も悲しい惨劇は、

もうカンボジアで最後になって欲しい

という強い願いを この国から私は感じました。



そして、現代ですら いまだにカンボジア人に貧困という形で 暗い影を落とす中、彼らカンボジアの人々は 外国人である私に対しても、柔和な笑顔を見せ、心から親切にしてくださいました。


(恐縮ながら)1日1ドル以下のお金で生活しないといけない困窮した人達であるにも関わらず、 村の中で、市場の中で見せてくれたのは、互いに助け合い、心の底から幸せそうな笑顔や笑い声だったのです。


今の日本は、経済的に豊かになり、今日生きるお金に困窮している人は かなり少ないと思います。

スーパーやコンビニではいつでも好きな食材を買えますし、医療機関も充実、交通機関も発達して車・電車・飛行機を使って、どこへでも短時間でいくことができます。


これだけ 物にもサービスにも恵まれているのにも関わらず、私達 日本人の生活には どこか閉塞感があり、常に疲弊していて、未来への希望を失っている方が多いのではないでしょうか。



きっと昔の日本にも 今のカンボジアと同じように、貧しくても 人々が助け合い、愛し合い 笑い合える時代があったはずなのに。

今回 カンボジアの旅行を通じて、テルミンさんがカンボジアを愛し、日本の大阪・阿倍野で カンボジア料理のお店を続けていたのは、カンボジアのお料理を通して

カンボジア人の、辛い過去も 現実も受け止めて 生きる たくましさと、

その上で

優しさ、温かさ、慈しみの気持ちを忘れない 心の強さを、日本人にも思い出して欲しかった

のでは無いかなと しみじみと感じました。




総論としては、

カンボジアは あまりに悲しい 暗い歴史を持ち、未だに当時の影響を受け貧困に苦しむ状況ながら、
決して過去の悲劇を隠さず、世界に発信する勇気を持ち、
カンボジアの人々は 人間としての愛情・優しさを失うことなく、
今を必死に 生きている、本当に素晴らしい国であると 私は強く感じました。



もし、カンボジアへ行く機会が御座いましたら、是非 カンボジアの歴史を直視して、 カンボジアの方々の人情に触れて、 カンボジアの美味しい料理を召し上がって、

今の日本人がどれだけ恵まれているのか、そして自分に足りないもの・幸せとは何なのかを、受け止めて 考えて、前を向いて歩いて欲しいと思います。


その答えこそが、きっと テルミンさんが ニャムニャム食堂を通じて、皆様に与えたかったことなのでは ないでしょうか。


長文で失礼致しました。

(私事ながら、たくさん心を揺れ動かさせられる旅だった為、感傷的な文章をしたためてしまいました。もしお気に召さない点が御座いましたら、申し訳ございません。)


ここまで ご拝読くださり誠にありがとうございました。



◆カンボジアの料理編の記事はこちらから◆

ニャムニャム食堂 故・高原輝美 を偲んで

2012年~2024年まで大阪府・阿倍野に存在した ニャムニャム食堂の記録をここに記します。 ニャムニャム食堂は 高原輝美氏が創業した、大阪府内で唯一カンボジア料理が食べられるお店でした。 大変残念ながら、高原輝美さんは 2024年12月に急死し、それに伴ってニャムニャム食堂は閉店となりました。 テルミンの愛称で多くの方に愛されていた高原さんを偲び、生きた証を残すべくこのサイトを作成致しました。

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